街に粋な風を!! NPO法人小政

今までの活動報告&足跡
・2005「愛知万博」参加
・2011 東日本大震災 緊急レポート OPERETION “KIZUNA”

誕生して50年‥‥色々な事ありました。楽しかったこと。感動したこと。そして悲しい出来事…。
先人から未来へと受け継がれる貴重な体験です。

世界へ届け悠久の風! 愛知万博参加 平成17年6月3日(金)

「愛・地球広場」で感動の神輿パレード

 “自然の叡智”をテーマにした愛知万博が2005年3月25日~9月25日まで開催されました。185日間の入場者数は予想を上回る2,000万人となりました。
  6月3日、伊勢神宮式年遷宮を祝うイベントに宮町神輿が参加しました。 古来より由緒ある伊勢の式年遷宮事業に日本の代表の神輿として携われたことは本当に名誉なことです。愛・地球広場では御神木の奉曳巡行を再現、そして「宮町神輿」が一緒にパレードを行いました。
会場一帯は日本古来の伝統文化のお披露目となり、ハイビジョンで世界中にも発信されました。 担ぎ手は埼玉を中心に東京、岐阜、愛知、三重各地の同好会と埼玉大学の留学生で構成。総勢200名が江戸前の粋な姿を元気に披露しました。NHKお昼の番組でもライブ中継され、地元大宮でも大いに盛り上がったそうです。中部地方をまとめていただいた岐阜睦の山田さんには大変お世話になりました!

参加した宮町神輿です。 

 

東日本大震災 OPERATION  "KIZUNA"

さいたまスーパーアリーナ 平成23年3月19日~31日

 2011年3月11日に発生した東日本大震災の原発事故被災者約1,200人が19日、さいたまスーパーアリーナに集団避難した。
 NPO法人小政有志は3月19日より31日迄、さいたまスーパーアリーナ5階にてボランティア活動に参加。震災や原発事故で追われた福島県双葉町の皆さんとの交流やボランティア体験などをレポートします。

1.今、自分たちが出来ること

 支援物資の調達とカップ麺の配給、ごみ処理や掃除など避難者の人達に少しでもお役に立てればとの思いでした。
 ご高齢の方が多く、老眼鏡や入れ歯の洗浄剤・接着剤が支援物資の中から出てきた時は大変喜ばれました。日がたつにつれ双葉町の方々とお話をする機会が増え、我々のボランティア活動に感謝を示して頂きましたが、これからの生活を考えると不安ばかりです。
 60代の男性が早く家に帰りたい思いから、原発に戻る事に決めたそうです。東京電力の下請け建設会社の社員でお呼びがかかり、4月18日から破壊された原発建屋のガレキの徹去に行くそうです。むなしいですね。小さな子どもを連れてきたお母さんが「おんぶひもなんかありませんよね?」と聞かれ、物資センターに駆け込み探してきました。大変喜んでくれました。「お父さんは?」と聞くと、今でも原発で働いているそうです。おじいちゃん、おばあちゃん、そして、小さな子どもを3人抱えて、着のみ着のまま避難してきたそうです。今だお父さんとは会えていないそうです。
 双葉町役場の方とも話しする事が出来ました。原発のほとんど1号機から4号機までは隣町の大熊町で双葉町は5、6号機があり、福島県からの恩恵は少ないそうです。でも、町民の半数は東京電力の関連会社に勤めていてこれからどうなるのか不安です。
 私自身、親戚の叔父が福島県の小名浜にいます。今は娘の嫁ぎ先の栃木県に避難してます。震災から一週間連絡のとれなかった仙台の友人も無事が確認出来ました。松島方面はまだまだ大変な様です。友人の女性も仙台の出身で、親戚は陸前高田、大船渡の海岸寄りに住んでいて、まだ連絡がとれていないそうです。
 今回、ボランティア活動でとても有意義な経験をさせて貰いました。微力ですがお手伝いする事がありましたら、もちろん今後も協力を致したいと思います。ありがとうございました。 (齋藤孝博)

2.自分もいっしょに頑張る

 今回、東日本大震災で被災された方々が、さいたまスーパーアリーナに避難されて、NPO小政としてボランティアに参加させて頂きました。着の身着のまま、避難されて来た方々を見て、日本で起きた甚大な災害により、避難警告が出て家に帰れないという現実を目の当たりにしました。今までに経験のないショックでした。もしも自分が同じような状況にあったら?私と同じような家族構成の皆さんの姿を見て少しでも力になりたいと思いました。
 さいたまスーパーアリーナ5階にいる皆さんのあれが欲しい、腰が痛いなど様々な要望に若いボランティアと協力して、2階から5階まで何往復も階段を駆け上がり、物資を運びました。不自由のない生活が出来るよう、日用品を手渡し、会話をし、ふれ合いながら過ごした数日間でした。とても貴重な経験をさせて頂きました。普通の生活が出来る事が幸せだなと、自分を振り返るいい機会となりました。
 最後に、この度の震災で亡くなった方々の御冥福を祈り、避難所にいる皆様方が笑顔を取り戻せる日まで、出来る限りの協力をしていきたいと思います。「これからも自分はいっしょに頑張る!」 (梶田行成)

3.「ありがとう」の重み

 僕は、被災したのにボランティアとして頑張ってる仙台の友達がいるから、自分も出来る限りのことをやろうと参加しました。双葉町の人が到着した時の不安げな表情が忘れられません。
  帰り際、おじいちゃんやおばあちゃんから言われた「ありがとう」には普段とは違う温かさを感じました。もう少し落ち着いたら、復興に向けて頑張っている友達を僕が助けに行こうと思う。 (片寄吾郎)

4.“福島県は負けません” 心強いメッセージが…

 双葉町、浪江町、いわき市から避難された方にお話しを伺いました。中には、何カ所かたらい回しされ、埼玉に来たという人も。「ここは必要な物はほとんどあり、ボランティアの皆さんには心より感謝している」と仰っていました。
●保育園の保母さん(20才) 保育園の先生1年目。「子ども達と一緒に避難し、家族は二本松に。別々で寂しいけれど、今は子ども達と一緒にいることが大事だと思っています。」
●一人暮らしの70代男性 「他の町民と最後まで一緒に行かないと、行く所がない。」
●お年寄り夫婦(70才)「双葉町より3万円貸し付けてくれるという。買いたい物はあるが、返せそうもないので借りられない…。」
●第一原発社員 「皆さんに迷惑かけて、本当に申し訳ありません。」
●一人暮らし70代女性 「原発の新聞記事、意味がわからないので辞書が欲しい。」自宅から辞書を持って来て差し上げました。
<最終日の31日、5階にたくさんのメッセージがありました>
◆福島県は負けません 埼玉県の皆さん,ョ 毎日毎日 私達の為にありがとうございます。明日の明るい未来を見られる様に今出来る事を頑張りましょう。
◆埼玉県+福島県 たくさんのありがとうを… 牛乳飲みたいヨ
◆埼玉って都会。電車6番線まであってびっくり…です(笑)
◆ボランティアの皆さん、ありがとうございました。心より感謝しています!双葉町が復旧したら是非遊びに来て下さい。必ず明るい未来を創っていきたいと思います。 (片寄利昭)

5.今、救いはとなり近所の “深いきずな”

 3月19日午後、大型バスで原発被災地の双葉町の町民が次々とさいたまスーパーアリーナに到着した。必要最低限の荷物と子どもを抱いた両親、ご高齢の方が目立つ、車椅子のお年寄りも。この光景を目の当たりにし、どこまで出来るか分からないが、とにかく仲間と共に行動しようと誓った。
 夕刻、到着した双葉町の皆さんと5階まで荷物を運ぶ。かなりの距離で大汗をかいた。アリーナ5階の現場は、人でごった返している。とそこへ他のボランティアより伝言が。「さっき到着した双葉町の△△さん(おばあちゃん)が車椅子の夫とはぐれてしまった。5階の階段で待っていると館内放送してほしい」との事。急いで2階へ降り、放送室で説明すると、住所とフルネーム分からないと放送できないとNG。再び5階へ引き返す。こんな時は個人情報が必須と痛感した。事前に救護センター、物資センター、放送室などの要所を下調べしておいたのが役立った。バタバタ状態で始まった大移動。町民にとっては長い夜になったことだろう。我々も本日は終了。
 二日目からは、日常の生活とはいえないが、落ち着きが戻った感じ。5階フロアに生活用品、衣料品、食料、カップ麺を並べ、利用してもらうスペースを設けた。これで階下まで行かなくても用が足ります。若手がダンボールで工夫しながら、分かり易く分類してくれた。ボランティア作業にあたり、必携品はメモ、ペン、マジック、ガムテープ、カッター、軍手、マスク、タオル、飲料水など。リュックにまとめる。基本的に手弁当だが、余ったパン、お弁当をご馳走になった。食事は2階までダンボールトレーで取りに行くのだが、長い距離で階段がきつそう。「豚汁がこぼれて半分になってた(笑い)」「うちらは食べれるだけ幸せだよ。よそじゃ、食料届かない避難所あるんだから」。
 この頃、訪ね人が多く、人捜しが増えた。他のフロアーから捜しに来た人や、こちらに住む親戚や知人が訪ねて来る。方法はダンボールに名前を書き、掲げながら大声で捜すのが一番。和田氏はこれで何人も再会させた。神輿で鍛えた声が思わぬ所で功を奏した。涙で抱き合う様子は、こちらも胸が熱くなる。3日目あたりから、体調をくずすお年寄りが目立ち、救急車で搬送される方もいらっしゃる。環境が変わり、精神的にもストレスが徐々にたまる。足をちょっと踏まれただけで当たり散らす男性も。気持ちは痛いほど分かる。話しを聞いてあげ、事なきを得る。今さらだが、会話をすることで気持ちも少しは和らげるのだと気づかされた。そして、生活物資は勿論、とりまく環境や諸問題も日毎に変わる事もわかった。「昼間は館内の電気を消して、もったいないよ」と冷静なおばさんも。顔なじみになった浪江町のお父さんは、「阪神大震災の時は仕事でガスの復旧工事に行ったが、まさか自分がこうなるとは… とにかく今は浪江の情報が欲しい」。4月からはさいたま市北区の施設に移るという。
 少しづつではあるが、生活にも慣れ、笑顔も戻ってきました。だがここも今月いっぱいで、加須に移されます。本当の苦労はこれから続くと思います。福島県民はご近所の深いきずなで結ばれ、大切にしています。でっかい家族のようでした。救援物資も必要以上持っていかず、ゆずり合いの気持ちも忘れない。手つけてないからときのこ汁をくれた、やさしいお母さんもいます。大切なことを教えて頂きました。桜の咲く頃には加須で春を迎えます…  (太郎)

TOUHOKUと心はひとつ!! 共に汗を流した若手ボランティアにエールを!!

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